活躍する日本人職員 第4回:茶谷和俊

茶谷和俊
ILOジュネーブ本部 雇用政策局 



大阪出身。東京大学・アムステルダム大学大学院等で労働政策を学ぶ。外資系コンサルティング会社を経てILOに入職。

Q1. 雇用政策局で勤務されていますが、具体的にはどのようなお仕事か教えて下さい。

雇用政策に関する支援の依頼が加盟国から出された場合、まずその国の状況を分析します。マクロ経済の状況や、労働市場の状況、インフラ、教育水準、法規制、現行の政策等ごく多様な要因が雇用に影響を与えますので、幅広い要因を複眼的に分析します。

ある程度問題点を把握した後、当該国の当事者(政労使代表や学識経験者、他の国際機関等)と意見交換します。発展途上国の場合、政府予算や行政能力が限られていることが多いので、雇用創出を阻害している根本要因を絞り込み、それに対して効果的な政策を考えることが重要です。このようにして政労使の政策対話を促進しながら、あるべき雇用政策について合意形成を図ります。


Q2. 現在、どのような仕事を担当されていますか?

今は雇用政策の中でも、発展途上国での主に若者向けの職業訓練の促進に関わっています。雇用を生むことは2つの側面があり、1つは企業活動等が活発になって求人が出ること。もう1つは求人内容にスキルや経験が合致した人が応募し採用されることです。今は後者の方に取り組んでいます。

具体的には、職業訓練の内容に労働市場のニーズを反映させること、それからより多くの職業訓練機会を提供することです。先ほどお話ししましたように、発展途上国の政策リソースは限られますから、いかに民間企業の活力を活用するかに焦点を当てています。官民連携型の職業訓練の仕組み作りとこれに向けた合意形成や支援をいくつかの国で行っています。



Q3. これまでに担当した仕事で、印象に残っている仕事はありますか?

そうですね、アフリカのモザンビークの雇用創出について関わったときのことを話したいと思います。モザンビークは内戦終了後、天然資源の採掘で経済は伸びたのですが、雇用は生まれず、高失業と貧困に悩まされていました。鉱業を除けば産業セクターの伸びが弱いため、労働力が吸収されず、低生産性の自給自足的な農業セクターが人々の生活を支えています。

ILOチームは1か月程かけた初期分析のあと、金融セクターに雇用創出を阻む根本要因があると考えました。農家や中小企業に資金が回らないために、生産性を高めるための投資や起業、または事業拡大が難しくなっていたからです。これは、中央銀行がインフレ抑制を主眼とした金融政策をとり、政策金利を高く設定していたため、民間の金融機関の貸し出しレートも高くなっていたことが一因でした。他方で、民間の金融機関も、天然資源関連の大企業に資金を貸し出した方が低コストで安定した収益が見込めるので、小口の資金ニーズに対応できていませんでした。マイクロファイナンスも高い資金調達コストのために、零細農家や起業家の資金ニーズに対応できるビジネスモデルを築けていませんでした。市場メカニズムだけでは効率的な資金配分が出来ないため、政策的な対応が必要と考えました。

我々はモザンビークの中央銀行と対話を重ねました。ILO本部からリサーチチームを、また専門家を2度派遣しました。中央銀行の金融政策担当者を対象にしたセミナーをジュネーブで開催し、モザンビークから担当者を招待しました。モザンビークの中央銀行は当初、低インフレを政策目標の中心とし、雇用創出については中央銀行の仕事ではないと考えていました。しかし、金融は雇用に大きな影響を与えます。我々はモザンビークの金融セクターの問題点について対話し、他国の金融政策の例、農家・中小企業・起業家向けの信用保証や融資枠などについて議論しました。こうした政策対話を通じて金融政策担当者の考え方を、インフレ抑制中心の金融政策から雇用創出や開発にも視野を広めたことは大事なことだったと思います。もちろん、国の金融政策が一夜にして変わるわけではありませんので、辛抱強く対話や提言を続けなければいけません。

Q4. 国際機関を目指すきっかけとなったことについて、教えていただけますか?

国際機関どころか海外とも無縁のごく普通の家庭で育ちました。奨学金を受給して大学を出たので、それほど裕福な家庭環境だったわけでもありません。強いて言えば、僕が生まれる前に他界した父方の祖父が航海士として商船の海外航路の仕事に就いていたので、祖母が「海外で仕事をすることが隔世遺伝したのではないか」と言っていたことぐらいでしょうか(笑)。

帰国子女でもなく、英語力と言っても日本の英語教育の枠の中で多少出来る程度だったので、大学在学中も国際機関で働くことを明確に意識していませんでした。20歳になった夏に初めて海外に出て、環境保全のボランティア活動に従事し、少しずつ意識が海外に向かうようになったように思います。

「あなたは高等教育を受けたのだから、その恩恵を社会に還元しなさい」、これが大学時代の恩師の言葉です。彼は、国立大学がかつて帝国大学と呼ばれていた頃の学生の気風について語った後、高等教育とそこで学んだ者の使命について話してくれました。社会のために自分に何が出来るのか漠然と考え始めたのですが、その当時は明確なイメージを持つには至りませんでした。

就職活動も終わった大学4年の夏にアメリカに短期留学し、海外で学ぶ・働くことを真剣に考え始めました。外務省が日本人の若手を国際機関に派遣するJPO制度について知ったのもその頃だったと思います。その制度を知ったおかげで、国際機関で働くことを現実的に考えられるようになりました。語学力・職務経験・専門性等、乗り越えないといけないハードルは高かったのですが、何をすればよいか分かったことは大きかったと思います。

大学院を終え、パリで語学留学をした後、ILOの駐日事務所でインターンをしました。当時の駐日代表の方がジェンダーの専門家の方で、女性と労働をテーマにリサーチ等の仕事があるとのことでした。もともと、大学の頃から雇用の仕組みと女性のキャリア形成に関心がありましたので、長い志望動機書を添えて応募しました。彼女のもとで仕事をした半年の間に、国連機関が出すレポートの重みを肌で感じたことが、ILOで仕事をしている現在の自分の原点になっています。国連機関の仕事を通じて政策に影響を与えると、助かる人々がいる、ということです。

Q5. 最後に、ILOでの雇用政策に関わる仕事を通して、ご自身の役割をどのように分析されますか?

雇用創出や雇用の質をより良くすることについては、ミレニアム開発目標にも含まれた世界的合意ですから、異論は出ません。しかし、どうやって雇用を生むのか、どのようにして雇用の質を高めるのかについては多様な、時として相反するような、考えが存在します。例えば、労働者の解雇規制を緩くして、賃金を抑えることで投資を呼び込み、産業を促進することで雇用を生もうと主張する人もいれば、労働者の保護を強め、賃金を上げることで内需を刺激し、雇用を増やそうと考える人もいます。同じ目標に対して様々な手段がある中で、政労使の社会対話を促進しつつ、労働市場の分析データに基づき、その国の状況にあった政策を提言することが専門機関としてのILOの役割だと思っています。

JPO試験に向けて頑張っていた頃から10年以上たった今も、誰かのために仕事をしているという気持ちは変わりません。ILOの仕事で時々大変なこともあるのですが、少しでも雇用が多く生まれれば助かる家族もいるし、そのおかげで学校に通うことができる子供もいるはずだ、と思っています。自分の仕事が、間接的にではあれ、どこかで誰かの役に立っていたらいいですね。