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「国家の安全保障」から「人間の安全保障」への移行は、歴史的にみて重要である。
2004年12月26日の大規模地震および大津波は、人間の安全保障という包括的な枠組みの中で、安全保障を概念化することが、いかに有効かを、はっきりと示した。自然災害により、インド洋に面した多くの国々で、膨大な数の生命が失われ、その中にはリゾートで休暇中の何千人もの欧米人が含まれていた。母なる自然は、イスラム教徒とキリスト教徒、タミル人とシンハラ族、富者と貧者、現地の人と外国人を区別することなく、すべての人を平等にその胸元、海の底に呼び寄せ、我々はすべて、「人間」という家族であるという現実を痛感することになった。我々は同じ地球という天体に居住しており、国家の安全保障の概念に基づいて人工的につくられた敵意と対抗心は、人間の安全に対する現実の脅威から国民を保護するには意味を持たないことがわかる。
津波の例で明らかになったように、安全保障の概念は水平にも垂直にも広がりをもっている。水平には単なる軍隊を超えた問題を包含し、垂直には上には地域と地球全体の仕組みを包含し、下には地元と個人のアイデンティティを包含する。人間の安全保障とは、個人を議論、分析、政策の中心に位置づけるもので、人間こそが至上の存在で、国家は人間の生命と安寧を保護するための集合体である。人間の安全保障の根幹をなすもの−個人の安全と生命に対する脅威から人間を保護すること−は、外部からの攻撃により危険にさらされることもあれば、「治安」部隊を含む、国内の要因によって脅かされることもある。
国家の安全保障を人間の安全保障に再構築するのは単純ではあるが、世界に対するものの見方、政治の体系付け、公共政策や外交政策での選択、そして、他国や他文明の人間とのかかわりに深遠な影響を及ぼす。
人間の安全保障には、国家を個人の安全保障に脅威をもたらす存在とみなす人権の流れと、国家を人間の安全保障の担い手とする開発の流れがある。いずれも国連の政策論議に反映されており、なぜ人間の安全保障の議論が最初に国連で行われ、1994年の人間開発報告書でその内容が広く知られるようになったかの説明になろう。人間の安全保障は経済、食糧、衛生、環境、個人、地域、政治という7つの側面を包含すると考えられている。
一般的にいうと、カナダと日本は人間の安全保障のそれぞれ異なる流れを強調してきた。カナダは、国としての義務を怠っている国家もしくは国民に危害を加えている国家から迫害の危険にさらされている国民の保護に重点を置いており、危険にさらされる集団を効果的に保護するという命題と、国家主権という普遍の現実の調整のための国際委員会を設置した。一方、日本は開発を支柱として、「人間の安全保障世界委員会」を設置している。
カナダが主唱する委員会は、人間の安全保障を「人々の安全保障−人々の身体の安全、経済的社会的安寧、人間としての尊厳や価値の尊重、人権と基本的自由の保護」と定義した。
日本が支援する委員会は、人間の安全保障を「人間の自由と可能性を実現できるように、人間の生命にとってかけがいのない中枢部分」を保護することと定義した。つまり、「政治、社会、環境、経済、軍事、文化のシステムを、人間の生存、生活、尊厳を確保するための基本的要素を提供するものにするという」定義である。保護と安寧の目的を結ぶ情緒的なつながりは、国境を越えた連帯感であり、国籍、人種、宗教、性別の差を超えて人間が人間として連帯感を持つことである。
人間の安全保障の実現は、簡単に願うだけではかなわない。世界の最貧国に住む多くの貧困者にとっては、テロリズムや大量破壊兵器により攻撃を受けるリスクよりも、いわゆる「ソフトな」脅威が蔓延しているという現実がある。すなわち飢餓、安全な飲料水や衛生の欠如、伝染病などで、毎年何百万人が命を落とし、その数は「ハードな」あるいは「現実の」安全に対する脅威によるよりもはるかに多い。2005年の人間開発報告書には、意味のある国際比較統計が−残酷な結果であるが−載っている。過去10年間のインドの経済成長にもかかわらず、幼児死亡率の低下は、近隣諸国でより貧国であるバングラデシュのレベルに及ばない。インドとバングラデシュが同レベルであったら、2005年に73万人の幼児が命を落とすことはなかった。また1歳〜5歳の幼児をみると、女児は男児よりも5割多く死亡している。つまり、インドでは、毎日13万人の1歳〜5歳の女児が差別されることにより命を失っている。全世界では、2005年の状況が続くと、ミレニアム開発目標の乳幼児死亡率の低下が達成できず、2015年には本来であれば避けられるはずの440万人の死につながる。約230万人の子どもが40億ドルの費用で、新生児への予防や治療のための医学的介入によって生存可能となるが、この費用は先進諸国のわずか2日間の軍事経費である。10億人以上が安全な飲料水へのアクセスがなく、260億人以上が安全な衛生設備にアクセスできない。これらの不足は、10年間毎年70億ドル投資すれば−この額はヨーロッパで香水に消費される額より少ないが−克服可能で、つまり毎日4000人の感染症の罹患を減少させることができる。
安全保障を人間という観点から考え直すことは、学識者、政策決定者に対し、政策のトレードオフについて明白な評価の変更を強いることになる。これに関しては、ハリケーンのカトリーナがニューオーリンズを襲った際、イラク問題が原因で、その地域の洪水防止施設を強化する資金が欠乏し、水防災害救助や援助活動を行える国防軍が約3分の1少なかったという、際立った、悲劇的な事実により明らかになった。
このように、人間の安全保障は、国家政策と国際的な行動の一類型を示し、平和、安全保障、開発という観点から、国連も関心を持っている。それゆえに、「人間の安全保障とILOの役割」というセッションで座長を務めることができ、光栄に思う。昨年出されたILOの調査結果によれば、良好な経済的安全保障が提供される国に住んでいるのは、世界人口の8%に過ぎない。一方、不安と怒りに満ちた世界に住んでいるのは4分の3に達する。ILOの取り組み及びILOが人間の安全保障で果たす役割についてさらに多くのことを学びたい。